トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す を読んでみた トーマス・マン著

  詩人と小説家の旅を題材にして短編2編で、美しい人にとらわれた心の移り変わりを哀愁あるタッチで描いた秀作。高橋義孝さんの翻訳が絶妙で日本語のこまやかな語彙が新鮮に映る。



 

トニオ・クレーゲル

 幼いころに惹かれた男の子と女の子はともにブロンドに青い目をしていて、詩を密かに作るトニオは悠然とした振る舞いのできる二人に憧れる。少年から青年へ移り変わる心の揺らぎの描写はトニオの性格をよく著わしていて、文章を読むのが楽しい。描写の綴りが多いのだけど、翻訳者の溢れんばかりの語彙に助けられ苦にならず、トニオ・クレーゲルが詩人である感性のありようが映る。

 中年になるころには詩人として名を馳せているのだけど、故郷の近くの海浜のホテルで懐かしいひと時が蘇る。少年時代の風景と心理が重なり、人の芯なる部分はそれほどに変わらないことを思い起こさせる構成がすばらしい。風景と心理描写だけで読める小説は少なく、ふとダブリン市民を想いだした。そんな情景をつらつらと読み耽ってゆくとベートーヴェンの九つの交響曲が顕われるのだけど、トスカニーニの第九が部屋中に響いてシンクロしている。本を読んでいると稀に文体と実態が同期することがあり、なぜこの本を手に取ったのかを一人合点する。


ヴェニスに死す

 アッシェンバッハなる年老いた小説家が南国へ旅に出てヴェニスに落ち着き、蜂蜜色をした髪の美少年に惚れてしまう。だからと言って会話をすることもなく眺めるだけなのだが、それだけで文庫本50ページに及ぶのだから大したものである。アッシェンバッハはいろいろな思い付きや考えを述べるのだけど哲学や芸術論などが挿入されて作家の思想がはみ出ることはなく、ただひたすら日常と少年の美しさが展開される。街の中を家族に連れられ物見遊山する少年を密かに追うシーンは今だとストーカーになりそう。でもドキドキする描写はよく描かれている。

 芸術作品なる小説を執筆してきて威風のある老人が少年に惚れるアンバランスな点が滑稽であるがゆえに美文になるのかもしれない。翻訳がすばらしい。