シシューポスの神話 カミュ著

 不条理の哲学と文学についてカミュの考えと思いを記したもので、最後にシシューポスの神話と題された章がある。シシューポスとはギリシャ神話に出てくる話で、神々の怒りをかったシシューポスが山の麓から頂きまで大きな岩を転がして持ち上げると岩が落ちて麓まで戻り、再び転がして頂きにつくとまた落ちることが延々に続く話で、不条理な情景を不条理な考え方の象徴として書いている。青年時代に読んだ時は、イデオロギー的な色彩が僅かに残る時でもあったし、若かったので目的もわからず貧乏であることが不条理だと思い、脱却するパッションがあった。そして、食べてゆくことに対する不安が往来していた。そしてそれなりではあるが、目先のことに一生懸命に生きてきたと思う。そして壮年になって読み返すと、生きることも死ぬことも不条理であることが自然であるように思えるようになった。東西の壁が崩れ、イデオロギーに欠片も散見しなくなり、ECのように国境もなく移動できる世界が来るとは思わなかった。青年の時よりは豊かになったように思うけど、精神的な豊かさは増えたようには思ない。でも、不条理な文学という体裁は消えたように思える。

 カミュ、カフカ、ドストエフスキーをこぞって読んだ。その中にみる不条理は西洋のヒューマニズムと同様に神に対する人なのだと思う。でもそれは西洋であり、七五三で神社に参り、幼稚園で洗礼を受け、結婚式で三々九度を交わし、葬儀でお寺に眠る日本人としては肌ではわからないように思える。ある意味で無神論者であるわけだから、すでにシシューポスであるわけだけどシシューポスだと自覚することはない。

 プログラムなどを勉強すると全ては定義であり、哲学においても同様な気がする。先天的、超越的に感じ定義されていることをカントはアプリオリだと言い、カミュは跳躍と言っている。跳躍で大江健三郎の『見る前に跳べ』を思い出してしまった。カフカの不条理より直材的であったように思うし、そのころまではイデオロギーの欠片があったように思える。もう自分を定義する必要もない。