本の表装が実に洒落ている。背表紙にしか題名がないし、色具合がなんとも言えず、抽象化された本の内容を果てしなく想像してしまう。同じ本でも出版社が違えば表装は随分と違うものだけど、見た時になんとなく違和感があったり、なんとなく逢いそうと感じるものだから表装は大事に思う。
最近は南米文学に触れる機会が多くなり、題名に釣られて長い連休中に読み耽っていたのですが、RCAケーブル作りなどに精を出したりしていたので読み切れず、思いのほか長い作品だった。なにせ、1ページが上下2段に分かれて記載されているのに475ページもあるのだ。同じように上下2段の記載でマルローの王道を思い出し、きっとこの本も楽しまさせてくれるだろうと期待した。石蹴り遊びの作家はフリオ・コルタサルというアルゼンチン出身、パリ在住で1984年2月に亡くなられている。
冒頭に本書の構成が書かれていて、大きく2部に分かれているとのことだ。まぁそうは言っても内容的には相似していて、どちらの部にもストーリー性はないのだ。日常のなかの存在と無についての考察がちりばめられていて、2部目は作家のテクストの様相が強い。文体は形容詞が溢れかえり、どのオブジェクトを指しているかを忘れてしまいそうになり、夥しい修飾語に溺れそうになる。でもなぜか想像が気楽に連鎖して面白い。論理的な展開の場面でも不思議と自由に想像できる。きっと作者も自由に表現しているからではないだろうか。1部の形而上学的なディベートになる章が印象に残り、カラマーゾフの兄弟に出てくる大審問官を彷彿とさせる。石蹴り遊びでは人同士の会話になっている点が心憎い。実際に主人公のオラシオのことを審問官と読んでいるから大審問官のテイスチャを含めているのだろう。そして流れる音楽はジャズなのだ。そうサルトルの嘔吐も同じようにジャズだった。そして男と女の話である。この本の前になぜか嘔吐を読み返したのは単なる偶然なのだろうか。形而上学的な作家や哲学者は男ばかりなように思える。男はどこかにデラシネが潜んでいるように思え、女は母になるから基点ができてしまうように感じる。
石蹴り遊びという題名に引かれたけど、石蹴り遊びを知らない。子どもの頃に学校の帰り道で石ころがあるとズックの先っぽで石を蹴りながら帰ってきた。それから、ケンケンパの遊びを思い出す。案山子のように描かれた升目を片足で行き帰りできると褒美に背後へ石を放り投げ、案山子の升目に入ると♨マークを付けて、自分だけの陣地になるのだ。そんな連想をつぎつぎと繋いでくれる本だった。