30年ぶりぐらいにカラマーゾフの兄弟(上巻)を読みました。ドストエフスキーの本はどれを読んでも卓越した冗長とも言える心情描写にただただ感嘆し引き摺り込まれるのですが、いつも訳者は江川卓さんなので訳者の方の技量も秀逸なのだと思います。余談ですが、作新学院の江川卓さんと同姓同名なんですよ、どちらも怪物ですね。ドストエフスキーの長編は罪と罰以降、刑事・サスペンスという側面から見ても面白いのですが、最後の長編となる本書では更に昼のメロドラマの愛憎劇が加味されている。だからこそ人としての救いが求められ、人とは何かという壮大なテーゼがあり、日常の傍らにこそ哲学があることを思い知らされる。1880年刊行ではるけれど、輝きは失われず、実にエキセントリックでドラマチックで低俗で高尚で不条理である。
父フョードルは情欲で金の亡者のようにフィーチャーされているけれど、それは人間の本能であり、その本能から苦悩が生まれ救いが必要であり、宗教による矯正もしくは秩序が求められることを巧みな構成の中に映し出している。そして父の対照となる三男アリョーシャは心優しく穏やかで僧院で見習いをしている。そのアリョーシャに論文を掲載している学者肌の次男イワンは「お前にもカラマーゾフの血は流れている。」と告げる。そしてそのことに深く理知的に悩んでいるのがイワンだと思える。そして腹違いの長男ドミートリーは父のライバルである。より父に似てはいるのだけど高潔でありたいと思う分だけ、苦悩が激しく肉体派なだけに混乱が大きいようだ。こんな彼らを緻密に描き上げてゆく、ここでアリョーシャの描写を抜粋してみる。『彼が恐れたのは、彼女がいったい何の話を持ち出し、自分がどう答えてよいかわからないということではなかった。また、概して彼女の内なる女性を恐れたわけでもなかった。もちろん彼は女というものをろくに知らなかったが、それでもやはり、ごく幼い時から修道院に入るまで、ずっと女ばかり相手に暮らしてきたのだ。彼が恐れたのは、まさにほかならぬカテリーナという女性だった。はじめて会ったときから、彼女がこわかった。彼女に会ったのは全部で一、二度、多くても三度くらいだし、一度は偶然にいくつか言葉をかわしたことさえあった。彼女の面影は、美しい、気位の高い、高圧的な娘として、記憶に残っていた。しかし、彼を苦しめていたのは、彼女の美しさではなく、何かほかのものだった。つまり、自分の恐怖を説明できぬことが、今その恐ろしさをいっそう強めていた。あの令嬢の目的がきわめてりっぱなものであることは、彼にもわかっていた。』いったい何行あるのだろう、拙者だと1行で十分終わってしまう。この調子で続くのだから長編になるわけであるが、スラスラと読むうちにその場に居合わせているように錯覚する。
本書は上・中・下と三巻に分かれているのだけど、この上巻だけで止まってしまってもそれはそれでいいのかもしれない。上巻の最終部に大審問官と題したカラマーゾフのテーゼがあり、それこそ扉無き人の迷いがある。30年の月日が流れても、この大審問官だけは心に留まっている。中世カトリックの組織であるが故の人の本性と教えの矛盾の中に不条理はあり、生と死と神と人、何がゆえに『人はパンのみにて生きるにあらず』と残したのであろうか。何も語らず、唇に触れて去りる。作家としては第2部の序章であるのだけど、上巻の終わりになっている。30年間、深淵を覗かないように遠巻きにしてきたし、これからもそうでありたい。そして、何も語らず触れることはわかる。
カラマーゾフの兄弟 中巻
カラマーゾフの兄弟 下巻