サラエボのチェリスト スティーヴン・ギャロウェイ著

 戦場でチェロを弾く音楽家を題名にした本ですが、チェリストのことについては何も語られておらず、彼は演奏するだけなのですが奏でる音楽が全てを物語っています。
 3人の主人公の22日間が交互に展開され、一人は女性のスナイパー、一人は海外へ家族を非難させた初老の男性、もう一人は小さな子供たちと奥さんを持つ中年男性、軍人一人に市民が2人の日常を通して悲しみと畏れ、憎悪、そして希望がチェロにより語られてゆく。
 少し武骨な文体だけど、それが戦場の緊迫した空間の中に日常があることを浮き上がらせている。構成といい文脈といい空気感といい、そして戦争の悲惨さがとても良く書かれた本だと思う。

 本に書かれた一文を紹介したい、『鏡の前に置いてある短い蝋燭に火を点け、ひげを剃りはじめる。いつの日か、熱いお湯によく切れる剃刀を使ってひげを当たれるようになるはずだと、ケナンは考えている。いつの日か、毎日がこうした小さな贅沢でいっぱいになり、それらの一つ一つを楽しんで味わうことができるようになるだろう。』僕の居る日本は平和であり、平和ボケしているせいか毎日の仕合せを見過ごしてしまっている。
 小さな出来事に仕合せを感じられるようになれば人生は豊かだと思う。僕はお酒が呑めるととても仕合せを感じられるし、家族の誕生日にケーキを買うときも仕合せに感じる。戦争を画いた小説には同じようなことが書いてある。

 いつも心に止めている文章としては、井伏鱒二の『黒い雨』で主人公の閑間重松が原爆の落ちた直後に広島市内から戻る時、自分自身に言い聞かせる言葉、『どうせ何もかも飯事(ままごと)だ。だからこそ、却って熱意を篭めなくちゃいかんのだ。いいか良く心得ておくことだ。決してなげだしてはいかんぞ。』あまりの悲惨さに茫然自失して、今までの日常の意味が消え失せたのだと思う。本書でも出てくる3人は一般人を巻き込んだ殺戮の中で良心を失わずに生きている。

 このチェリストは実在した人で、サラエボの楽団に所属したヴェドラン・スマイロヴィッチ(Vedran Smailovic)さんがモデルになっている。1992年5月27日の午後にサラエボ市内でパンを買うために並んでいた22人の方が、砲撃されて亡くなられた。
 それを近所に住むチェリストが目撃して、余りの悲しさに22日間『アルビニーノのアダージョ』を砲撃の落ちた現地でチェロを弾いて弔われた。そこは砲弾や銃弾が飛び交っている市街地であり、その場所で亡くなられた時間にチェロを弾くのである
 取材に来たCNNのインタビュワーが「気は確かですか?」と訊いたそうである。彼は「私に気が確かかどうか聞く前にサラエボを砲撃した人々に訊いたらどうですか?」と応えたそうだ。
 戦争はこの後4年も続き銃撃戦は更に激しくなった。NATOが空爆を始めるのにチェロの音色が響いてから、3年の月日が流れている。