レコードのある家とボク

 めでたくハッピーリタイアでき、なんとか人生の区切りまで辿り着いた喜びはひとしおで毎日が日曜日だと綻んでいたら、『あんた、まさか辞めるなんて思ってませんよね』と天からカミ様の声が身体の芯を震わせた。そうくるよねと思いながら結局は延長戦だ。そうは言っても、役職から離れているので昔のように時間に追われることは無く、若者の中に交りながら仕事をしているのは楽しいもんだ。最近の若者はスマホにイヤフォンを繋いで音楽を聞いているけど、僕にはとんと馴染みがない。そもそも時間に追われて音楽などを愉しんでいる余裕もなかったのだが、ここにきてポッカリと時空が開いた。これと言って趣味は無く、好きだったゴルフも腰を痛めてから10年は素振りもしていない。子どもたちが高校、大学となにせお金がいる年代だったので、僕の中は空っぽになるまで働くばかりだった。
 うー~んと思いながら、やおら視界にあるオーディオに灯をともしてみた。結婚する前に蘊蓄をたれながら買い込んだ機材だけど、後半の人生をそれぞれに同じ軒下で暮らしてきた仲間だ。久しぶりにレコードをかけてみたら、魔法のランプから魔人が出てくるように音像が浮かんでくる。なんだか忘れてきたものを拾い集めるように音色が時空を埋めて満ちてくる。そうこうしている内に小さなスピーカーのRogers LS3/5aでは物足りなくなってしまい、家の間取りから空けられるスペースを算段してTANNOYというスピーカーを買ってしまった。あれこれと迷ったのだけど、結局は英国のスピーカーになるところが面白い。TANNOYには有名なスピーカーがあるけど、大きさとお金があわないのでトールボーイ型を択んだ。それでも、同軸スピーカーだけあって音像の定位が素晴らしく良いのでカミ様のクラシックレコードをよく聴くようになった。そうやってオーディオとレコードのある空間に浸るようになれば、おのずと情報もなだれ込んできて、『クラシックレコードの百年史』なる本の記事を読んでしまった。僕はクラシックに疎いので、歴史を振り返るには大変ありがたいと思い、早々にカミ様に図書館から本を借りてきてもらった。
 著者のノーマン・レブレヒトさんはレコード業界やマエストロにやたら詳しいし、なんか親近感のある面白い文章を書くなぁと思っていたら、業界の一人でレコード会社を辞めてからはクラシック番組のコメンテイターではないか。そうだよね、でないと事業部門のエピソードなんて出てこないし、録音時の苦労話も出てこない。なかなか面白い本に出逢えてうれしい。1980年代になるとCDが出てきてレコードの終焉を迎えるのだけど、SONYの盛田さんや井深さんの話も出くる。その当時はJAPAN AS No1なんて本が出て、エコノミック・アニマルなんて揶揄されてたもんだ。でも、本当にグローバル企業になれたのはSONYぐらいなもので、日本人の多様性の無さとビジネス構成力の無さを改めて想い起してしまった。

 さて、この本の駄賃として巻末に著者の独断と偏見によるクラシックレコード100撰がある。一枚一枚のレコードについて著者の見識と想いが募られている。音楽の表現されている文章は数多く読んだけれど、これだけ形容詞と比喩に富み、人生の交差点を息もつかさず書かれたものを初めて観た。それを読んでしまうと必然的にレコードを買ってしまった。その中の一枚が、ディヌ・リパッティのショパン・ワルツ集だ。しかも、このレコードは市販品ではなく見本品で、ブザンソン音楽祭のライブ盤である。かれは、14曲あるうちの13曲までしか弾けず、彼の指は止まってしまった。その最後の録音盤をボクの家のオーディがディヌ・リパッティを甦らしてくれる。ピアノを絶命する寸前まで弾いているからと言って鬼気迫る音色ではない。夥しいスクラッチノイズに邪魔されながらも、どこまでも優しげに包んでくれるピアノの音なのだ。右手より左手の伴奏の低い音がより響くのは何故なのだろう。リズムはどこまでも安定していてどこにも崩落するような予感はなく、いつまでも響きそうな少し乾いた音が脳裏に録音される。陽は勝手に明日もまた昇る。そして、明日もまたボクは何の役目もないのだけど頑張ろうと想う。それは、あまりにもピアノが優しくボクをくるんでくれたから、そう赤子が初めてくるまれたわたの中にように。