嘔吐 サルトル著

 古い本を読み直す。僕は本を読むのが遅いので繰り返し読むことは稀である。なのにこの本はこれで3回目なのだ。でも内容をほとんど覚えていない。要するに子難しいのだ。本を読むのが遅くて覚えも悪いのはかなり不利である。読むのが遅い理由は解っている。黙読するからだ、これでは読む速度が上がらない。発音するのは時間が掛かり、目に写す速度の方が断然に早い、何度か挑戦するものの子供時代に音読した癖が抜けない。
 嘔吐はサルトルの本で実存主義のテーマを小説にしたものだ。本質の前に存在しているとのことだが、当たり前のような気がする。サルトルはノーベル文学賞を辞退しているけど、作家というよりは哲学者であり政治活動家という印象の方が強く、小説と言っても新潮社からでている『水入らず』という短編を集めた文庫本とこの嘔吐ぐらいしか知らない。しかも物語としては『水入らず』を読んだ方が小説らしくて良いように思える。

 嘔吐の内容は、ある作家の日記となっており、日常が記載されているのでストーリー性は乏しく描写の文体もどことなく味気ない。日常が実存ということを描こうとしているので仕方がないのかもしれないが、やたら実存という言葉が出てきて表現しているところが苦しいように思う。また、不条理という言葉も唐突に出てきてカフカ、カミュと流れる不条理文学の一つに記されることがあるが、間違いではないかと思う。カミュの『シシューポスの神話』は確かに不条理がテーマだけど、あれは神からみた話で人から見た話とは違うようにも思う。カフカの場合は生まれた境遇や時代を考えると世界全体の不安と不条理が混濁しているように思うけど、『城』なんかは全てを超えてしまった境地のように思えるし、嘔吐が描く実存をより現わしているように思う。たんたんと日常があると実存なのか虚像なのか不明になりやすい。サルトルがWebネットワークが拡がった世界に生きていたらなんと言うのか聞いてみたい。フェイクもまた実存するのだろう。終盤になって文学的になる。なぜか音楽を話題に描いていて、どうもラグタイムなJAZZのようだ。なぜか聴いていたのはルービンシュタインのピアノ曲でJAZZではないけれどラグタイムの影響を受けている。少し暗めのトーンの文体ではありシンクロする時間が不思議に揺らぎながら、ピアノの音階がわずかに明るくなり木漏れ日が射すようにフェイクである本が閉じられてそこに在る。