審判 フランツ・カフカ 著

 随分と前に読んだ本を読み返してみたら、ほとんど覚えていないことに気づかされた。主人公のヨーゼフ・Kという名前と大雑把な流れはあっていたけど、こんなに唐突な文体だったのかと思う。小説が作成された時代が1914~1915年となっているので、第一次世界大戦の最中に書かれたことになる。
 その時代の不安が小説にも反映されていると思うし、今でも根拠の無い不安に苛まれる虚空を呼び起こされる。政治組織による権力が一般社会の中を統制する暗い時代が続いたわけであり、情報がオープンになるにつれて随分とそういった力も感じなくなったけど、逆にテロや個人の暴挙に苛み悲しい思いと不安が募る。裁判所という権力構造がドーナッツ状になり、どこに権力の中枢があるのか分からない。映画のカプリコン1で見たラストシーンもそんな情景だったように思う。また、その力が何の理由もなくおよび不安にかられる構図は不条理であり、不条理文学と呼ばれた要因なのかと思う。

 この小説の中で興味が湧くのは、弁護士の女中レニとの話と大聖堂における掟の門前の2話である。弁護士の所へ叔父に無理やり連れて行かたとはいえ、自分の裁判の行方について相談している最中に女中のレニと情事を過ごすのは過ちであり、人間のサガなのだと思う。肌擦れ合うことで抱えている不安を享受してもらいたかったのか、単に本能だったのか、よく解らないけど当初の目的と行動が違うことはままある現象だと思うし、それが人生を左右していくのではないかと思う。そして、掟の門前は他の小説にも出てきたように思う。何を問われているのか教誨師との不思議な会話であり、どことなく運命論じみている部分があまり好きではない。あと、本の終わりに本文の構成から外れている文章が追記されている。この小説は未完なので構成する時の問題なのかも知れない。外れている文章を読むと明るいイメージを感じる。本編とは雰囲気が違うのだ。それに文学的な文体のように感じる。

 ドストエフスキーでもそうだけど、サスペンスという分野から覗いてみると実にその分野でも秀逸な作品だと思う。物理的に具体的な恐怖が降りかかっているわけではないのだ。裁判が始まっても自由に暮らしているのだから、恐怖は己の中で自己増殖してゆく様が細胞分裂のように拡がっている。Kの不安が読み手を侵食してゆく。