カラマーゾフの兄弟(下)ドストエフスキー著 江川卓訳

 下巻は主に長兄ドミートリーの裁判状況が占めていて二転三転する内容は、推理小説を凌ぐ内容だと思う。圧巻なのは検事と弁護士の心理分析描写であり、字数が多いのに冗長にならないところが作家としての凄さだと思う。でも、それだけに不思議に思う点がある。それはイワンがそそのかした描写は中巻のどこにもなく、譫妄症になってしまうところである。長兄は感情、中兄は理性、末弟は道徳だと思うのだが、理性だけが根負けしてしまうかのようだ。そうまるでキルケゴールのように思えて仕方がない。『絶望とは死に至る病である。』と遺したキルケゴールの言葉とイワンの苦悩はにているように思えるが、なぜ絶望なのか?理性が絶望に追い込まれて道徳だけで生きるものでもないように思えるのだが、なぜゆえに作家は死に至りそうな描き方をしたのだろうか。

 作家の思想は弁護士の最終弁論に表れており、裁判を通して人の生き方について長年の考えをまとめてあるように思える。長兄は赦しを得たように見えるが、中兄は赦しをこうことを拒んだように思えるけど、ここに神に対する人ではなく実存する人として描きたかったのではないか。日本人の拙者にはとても理解できそうにない部分である。いずれにしても上巻の大審問官の回答が最終弁論であろうと思われる。思想的文学としても推理小説としてもサスペンスとしても同じ人のなかで起こることなのだから、同時に進む展開は当然であるものの、人の奇怪さや複雑さを感じさせられ、夥しい比喩と修飾語の一つ一つがまさにその通りである。実に稀有な本だと思う。