新聞の書評で気になった本を借りてみた。存在と無につながるような哲学的なエッセンスが含まれているような...本を手に取って著者の名を見た時に、ふと気が付いた。そう青山七恵と言えば、『ハッチとマーロー』の作家ではないか、なかなかに現代的な文を書く作家で面白いのだけど、存在と無には?
園州律という新人作家が頼まれて、亡くなった依頼人の姉の伝記を創作することになる。本の中の作家の日常が現代的なリアルさと感情表現で、ハッチとマーローのようなコミカルさを伴って展開してゆく。なので、現代の言葉使いと相まってとても読みやすい。
作家の園州律さんと依頼人の姉、百合さんがそっくりであり、依頼人はその身代わりとして作家をとらえているのだけど、園州律さんも百合さんの過去を取材するごとに百合さんとの錯覚に見舞われる。
でも、青山七恵さんのみがわりのような気もする。我思うに、我在りとデカルトはゆったけれど、それもまた錯覚なのかも知れない。
現代的な言葉使いと現代的な日常のなかで人としての錯覚を彷徨い、日常の断面が写しされハットするような文になると文豪になるような気がする。
その意味では、終わり方が『悲しみのイレーヌ』の構図ではなく、どちらでもないまたどちらでもある状態に深淵があると良いのかも知れません。